第5章 親殺し
https://gyazo.com/31ef0be6964acef82acaca9175b31e74
人間のように有性生殖する生物はすべて、親と子が遺伝的に同一ではないので、一方の適応度上の利益を促進するために理想的な行動が、他方にとっては最適とはいえないことが生じる 両者は血縁度が高いために本質的な利益を共有しているが、対立が生じる可能性も同時に有している
親のエネルギーと資源をどう配分するか
子から見た理想的な配分は、必ずと言っていいほど親の観点から見たものと異なる
親と子の対立の論理
全く平等な子育てをする母親と、全く同一の適応価をもつ2人の兄弟 母親が二つの食物を家に持って帰り、それを食べることによって、自分の現在の適応価を上昇させることができるとする
大事な仮定: あなたが親の資源を消費することによって得るものは、だんだんと頭打ちになる
実際に様々な状況のもとでそうであることが知られている
第一に飢えをしのがなければならないときや、エネルギーや栄養を蓄える能力に限界があるときなど
一つ目の食物を食べることによって、あなたの現在の適応化は4単位上昇するが、2つ目を食べても、さらに3単位しか上昇しないとする
母親が分配を決めるならば、食物は同等に分けられる
母親にとって子どもの適応価は8単位上昇する
片方が独り占めした場合は7単位
兄弟同士はお互いの遺伝子の複製者ではあるが、自身ほどに効率のよい者ではない
自分自身の適応価は、兄弟の適応度の2倍に評価するはずだ 母親が平等に食物を分けた時の包括適応度は6単位でしかないが、自分が全部食べてしまえば7単位になる この議論は同父で$ r=0.5を仮定しているので、異父兄弟であれば、平等の概念はさらに差し引かれることになる
どの子どもも、つねに親自身からみて適当と思える以上の取り分を要求する
親にとっての理想的な資源の分配が、子どもにとってのそれと一致することはない
この分析の結果わかることの一つは、子どもがいつ離乳するべきかについて、親と子は一致しないだろうということ
事実そのとおりのことが見られる
しかし、もっと一般的に、ある特定の子どもに対する親の投資の量は、子どもの一生のどの時点でも争いの種になるはず
数量的な例では、子どもは自分自身を兄弟よりも高く評価するが、親は両者を同等に評価する
正確に平等な評価は実際にはなかなかないと思われるが、子どもが自分で兄弟を実際に評価するよりも高く評価するように仕向けたほうが、親自身の利益が上昇するのは一般的に見られることだろう
親は、あからさまな兄弟喧嘩を抑えて罰するようにし、兄弟間の団結と利他行動を奨励しようとするだろう
さらに、トリヴァース(1985)がこの問題をさらに深く検討したように、他の血縁者に対する親からの観点と子からの観点も異なるに違いない
親Pにとって、子どもC($ r=0.5)は、甥や姪N($ r=0.25)に比べて二倍の価値があるだろう
しかし、Cから見れば、Nはいとこ($ r=0.125)であり、自分自身($ r=1.0)の8分の1の価値しかない
親は自分の子供達が利己的すぎると感じ、傍系親族に対してもっと暖かい関係を持つように仕向けるだろうが、子どもは、それをうっとうしく感じるだろうと予測できる
子どもは、自分の必要を親に伝えて反応を引き起こすような手段を進化させたと考えられる
しかし、適応度上の利益が一致しないので、子は、自分の必要(および自分自身の質)を誇張して伝えるように進化するに違いない
次の弟妹ができ親の投資から自分から引き上げられるという脅威に直面すると、子どもは自分自身の必要と親への依存度を誇張するために退行するだろう 28人の母親が、自分の子どもの退行現象に気づいた
そのうち15人はおだやかな兆候
残りの13人は退行が非常にはっきりしていた
子どもの側からのこのような心理戦争は、子どもの真の必要と状態とを正しく評価する対抗戦略を親の側に進化させるに違いない
もっと一般的に言うと、どちらの側もあらゆる手段を使って自分自身の最適値に向けて相手を操作するようになるだろう
リチャード・アレクサンダー(1974)が指摘する通り、勝ち目のない心理戦争をずっと続けることは、両者にとって利益がないので、子どもは「親のしつけに従う傾向」を進化させることになるだろうと予測されるかもしれない トリヴァース(1985)は、その点を認めた上で、興味深い付帯条項を付け加えている 思春期は、子どもの独立を知らせ、もうこれ以上の親の意志に従わなくてもよい時期になったと知らせるものだ
自分自身の利益と相容れない親の意志にいつまでも従っていれば、自分自身の包括適応度を下げることになる
つまり、この時期の個体は、自己の利益をより明確に反映するような方向に、自分自身のパーソナリティを再構築する
親を殺すこと
デトロイトにおえる殺人の1年間のデータには、10代の子が父親を殺した事件が4つ含まれている
そのうち3件が息子によるもので、残り1件は13歳の娘によるもの
どの事件でも、被害者はもとから妻に暴力を働いており、10代の子どもが家の銃を持ち出して、暴力をやめるように要求している
限られた資料から示唆されることは、思春期の子による父親殺しは、デトロイトの例がその典型だということ
コーダーら(1976)は、ノース・カロライナで殺人の罪に問われた思春期の子たちの精神分析結果を調べ、「父親殺しの罪に問われた6人の患者のすべてが、自分や母親に対して極度に暴力的なアルコール依存症の父親を持つ家庭からきている」と述べている ラッセル(1984)は、マサチューセッツの少年犯罪の同様な研究で、4例の父親殺し(うち1例は継父)について「父親はもっとも暴力的と呼べる性格」と述べている 思春期の子による母親殺しは、まったく別のカテゴリーのようだ
殺された母親は、少なくとも加害者に対して肉体的な虐待をするタイプではない
デトロイトにおけるたった1例では、加害者(女性, 18歳)は精神異常と判定されたが、4例の父親殺しでは、このような判定は一つも含まれていない
親殺しは、母親に対してよりも父親に対して集中しており、その傾向は、とくに思春期の加害者に顕著
1974年から1983年までのカナダでは、10代の子どもが犯した親殺しのうち、41対13で父親が母親を上回っており(76%)、20歳以上の子による親殺しでは69対49(58%)
父性の不確かさということを考慮に入れると、被害者が敵意を持って暴行を繰り返す要因はそこにあるのかもしれず、父親を殺そうとする思春期の子どもは、より確かな絆を持つ親である母親を暴力から守ろうとしているのかもしれない
この違いは、思春期の子どもが、父親よりも母親と接する時間の方が多く、父親の方が自己防衛の能力も威嚇の能力も高いことを考えると、さらに決定的になる
評価の不均衡
子に対する親の評価は、少なくとも理論的には、子が成熟するまでは増加するはず
繁殖価が時間とともに変化するということは、個体同士の互いに対する評価も、時間的に安定ではないということ Aの観点からすれば、A自身の適応度の担い手としてのBの価値は、AのBに対する血縁度$ r× B自身の繁殖価$ RV、つまり、$ R_{AB} \times RV_B
Bの観点からすれば、Aの価値は、同じ近交係数掛けることのA自身の繁殖価となる$ r_{AB} \times RV_A もしもAの繁殖価がBのそれを上回あれば、そして両者が近縁であれば、BはAのために、その逆の場合よりも、多くのコストを請け負ってもよい、たとえばAのために死んでもよいと考えるだろう
このような不均衡はAに有利に働き、おそらく、Bにとって最適な行動は、自分自身の繁殖を一切やめてしまって、繁殖しないヘルパーになることだというところまでいくかもしれない 成人した子どもは繁殖価が高いということから、普通は、年老いた両親にとっての子どもの方が、子どもにとっての両親よりも価値が高い
このような個人間の評価が、2人の人間が対立するときに危険な方策をとる確率を決めている要因
特に低い評価を与えられる人物ほど、危険な目にあう確率が高くなるに違いない
そこから明らかに導かれる予測は、親が子を殺すよりも、子が親を殺す方が多いだろうということ
小さい子供は除外しなければならない
比較すると無防備なので、おとなとのどんな関係があろうと、加害者になるよりは被害者になりやすい
この段階では、親の繁殖価の方が子どものそれよりも高いということもありえる
デトロイトにおける1年間の殺人データを見ると、この予測がはっきりと支持されていることがわかる
少なくとも16歳以上の子を殺した親は一人しかいないが、9人の親がそのような子に殺されている
考慮せねばらない要因
関係性がどうであれ、加害者の年齢が若いことによる以上のものか
実の親子間と継父の関係との間の比較
実の親子関係においてのみ、関係者間の互いの繁殖価に対する感受性が強く現れると考えられるので、継父母関係においては、親が子を殺す方が割合が高いと考えられる
事実、そうなっているらしいが、、それを確証するにはデータが少なすぎる
実父ではなくて継父の場合には、親が加害者であることが多いが、その差は統計的に有意ではない
被害者と加害者との間に血縁関係のない、すべての社会的葛藤における男性同士の殺人を調べる
例えば、年齢25歳から29歳の男性と年齢45歳から49歳の男性とが関係した、社会的葛藤に起因する殺人を取り上げてみる
両者が血縁関係にないそのような事件は全部で25例あり、若い方が年上を殺したのが19例(76%)
76%という推定値を取り上げ、それを、同じ年齢区分の父親と息子の間の殺人3件に当てはめる
2.28人の父親と0.72人の息子が被害者であると予測される
事実は、すべての事件が息子が父親を殺した例
これと同じ方法を、成人した息子と父親との間の111件の殺人事件に当てはめてみると、双方の男性の年齢だけを基準にした場合、加害者が息子である例が88例、父親である例が23例あるはずだと予測される
この違いは、親子間の評価の不均衡にもとづく仮説から導かれる方向性と同じではあるが、その仮説を統計的有意に支持するには至っていない
証拠がこれほど弱いということは、仮説がこのままでは間違っているのではないかということを匂わせる
実は、理想的には「適応度促進価」として概念化されるべきものに対して「繁殖価」という指標を使っていることにあるのかもしれない 例えば、更年期以後の女性には、普通の限定された意味での残存繁殖価はまったくないが、たとえ彼女自信の子どもは成人して独り立ちしてしまったとしても、彼女が自分の血縁者を助け、それによって自分の遺伝子を複製する能力までもがなくなってしまったわけではない 血縁者に対する自分自身の価値の認識に影響を与えるのは、単なる繁殖価ではなく、自分自身の「縁者びいき価の残差」とでも呼べるものなのだ
自分自身とお互いの評価の心理が、実際に縁者びいき価によって調整されているならば、年をとっていく両親の全体としての価値は徐々に減少して、おそらくマイナスにすらなるだろう
そのような状況における「利他的な自殺」はたしかに存在する
この状況において邪悪な要素となるのは、成人した子は、親自身が同意するよりも早く、年老いた親を負の存在と見るようになること
親殺しに関連する要因
加太の殺人データでは、親子間の評価のずれについてはほんの少しの証拠しか得られなかった
ともかく、この同じデータから、親の年齢が高くなるほど親殺しの確率が高くなる、ということは明らか
1961年には、カナダの初産の母親の平均年齢は27.3歳であり、1971年にはそれが25.6歳に下がった
しかし、娘に殺された11人の女性が、やがて殺害者となる娘を産んだ年齢の平均は27.9歳であり、息子に殺された50人の女性が、その息子を産んだときの平均年齢は30.0歳だった
母親殺しにあった女性の出産年齢と、他のすべての女性の初産年齢との差は、偶然に生じるよりもずっと大きい
カナダにおいて、母親の年齢が30歳以上である出産の割合は、一貫して全出産の30%以下である(最近は20%以下に減少)が、母親を殺した息子50人中の27人までが、母親が30歳以上のときに生まれている
殺された父親も、殺害者の年齢で考えると、偶然に生じるよりは年齢が高い
母親のデータに比べると、人口全体における父親の年齢分布の完全なデータはないのだが、結婚しているカップルに最初に子が生まれた時の父親の平均年齢が、1961年には30.9歳、1970年には28.6歳であったことは知られている
未婚の母親は結婚している母親よりもずっと年齢が低いので、結婚外で生まれた子どもをデータに入れると、父親の年齢も低くなるものと考えてかまわないだろう
ところが、殺された父親にその息子が生まれたときの平均年齢は32.7歳であり、娘に殺された父親にその娘が生まれたときの平均年齢は32.4歳だった
さて、ここで、おとなになってから親を殺した子は、四つの性別組み合わせのすべてにおいて、平均して遅く生まれていることがわかっただけだ
この違いは、いくつかの伝統的な観点では説明できない
親と子の年齢差が大きくなるほど、母親に対する性的興味も、父親に対する性的競争意識も減少するはずだ
家庭内暴力の原因に関する他の一般的な議論も、ここに見出された結果をうまく予測できるようなものは一つもない
とくに親を殺そうという強い反感は、長期にわたって親が子を虐待してきた結果として生じると考えられるかもしれない
そうだとすると、親殺し、子殺し、子どもの虐待の危険性はどれも、一定の人口学的変数と同方向に同じように関連しているはず
さらにこの予測は、親殺しと子殺しとを、同じようなストレス要因から生じる二つの代替産物とみるどんな理論からも導き出せるだろう
ところが、親殺しにあう確率に対する親の年齢の影響は、子殺しや子どもの虐待の確率に対する影響とはまったく正反対であることがわかったのだ
この分析が示しているのは、親と子の間の暴力はたんに同等の両方構成のものではなく、両者の生活史における段階と戦略とに関連した非対称性を表しているということ これらの様々な家庭内暴力が、共通する因果関係の要因を持っていることを否定するものではない
親が子を虐待した結果、後年になって親殺しを招くのだという可能性を否定するものではない
成長してから親殺しをする子どもは、比較的遅くに両親から生まれた子だという傾向から、出生順位が何らかの影響を与えている可能性がある 残念ながら、カナダのサンプルでは出生順位の情報はない
精神分析のケースに示された親殺し(特に母親殺し)の徴候は非常に明らかなので、特に興味深い問題
親殺しは、しばしば、アンビバレンスのるつぼからの感情的な爆発的逃避の徴候を示しており、子ども自身の利益に反して親が長いこと子どもを捜査してきたことに由来する、愛憎関係が現れている
多くの精神科医が親殺しでは、死んだ後もなんども刺すなど、過剰な暴力がしばしば見られると述べている
これらを考慮すると少なくとも親殺しの一部は、長期にわたる親の操作に対する苦悩と反感を終わらせるためのもので、上の兄弟の職や結婚のために、自らは親もとにヘルパーとして止め置かれているような境遇とも関連していると考えられる
精神法医学の専門家であるクリストファー・グリーンは、自分の「母親」を殺して、ブロードムーアの精神病院に送られた58人のイギリス人男性を研究した 加害者の43人(74%)が「分裂気質」と診断された
殺害時の平均年齢は31.2歳(範囲は18歳~51歳)
子殺しした息子を生んだ時の母親の平均年齢は31.9歳なので、カナダのサンプルと同様、平均初産年齢よりも上
加害者の49人(84%)は一度も結婚したことがなく、残りのうち8人は離婚または別居
母親殺しのときに結婚していた加害者はたったの一人で、この件では、加害者ははじめ妻に暴力を加えており、それを止めに入った母親を殺した
加害者のうち26人は、「母親から迫害を受けているという偏執的妄想」にとりつかれていたと診断された
結婚していた一人の男性は、それを妻に感じていた
14人は「利他的な動機を主張」、さらに11人は「どうしようもない怒りが突発的にこみ上げてきたということ以外に、行動を説明することができなかった」、残る6例には「さまざまな動機」が含まれている
これはもちろん、精神病の部類に入る集団であり、イギリスのすべての母親殺しを代表しているとは言い難いかもしれない
しかし、グリーンが引用しているデータは、イギリスの母親殺しの犯人の大半が精神病院に送られ、ブロードムーアの患者たちはその代表であることを示している
グリーンの結果の多くは、親の操作に対する若い息子の反感を反映しているようだが、さらに、いくつかの事実はもっと複雑な原因をも示唆している
特に、33例で父親が死去しており、さらに8例で不在であることは顕著な特徴
加害者の多くは、母親と二人きりで10年以上も暮らしている
加害者のうち19人(31%)は一人っ子で、さらに9人は兄弟姉妹の中の唯一の息子
兄弟をもっている30人の例について、加害者の出生順位と兄弟の結婚状況を知りたいところだが、グリーンはそのことには触れていない
カナダでは、英国の精神病院のサンプルと同様、親殺しをした成人の大部分が未婚
父親を殺した息子の85%が独身で、そのうちの78%は20歳以上であり、69%は30歳以上
残りの半分は過去に結婚していたことがあり、後の半分は現在結婚している
両親をふたりとも殺した10人の息子は、全員が独身
親を殺した娘で独身の者は55%であり、この数字は、息子の場合よりも有意に低い
娘に殺された親の36%が70歳以上だが、息子の場合は15%
おそらく、娘による親殺しの方が、息子によるものよりも「安楽死」の要素が大きいのだろう
子殺しにおける一般化
子殺しした親は、特に被害者の年齢が乳幼児よりも上の場合には、他の殺人事件よりも殺害後に自殺することが多く、また精神異常と認められることも多い
加害者の適応度上の利益の合理的追求とは相容れないタイプの殺人は、比較的頻度が低く、加害者自身も自殺する音が比較的多く、精神異常と認められることも比較的多いだろう
親殺し自体は、はじめから、非血縁者に対する殺人よりも、加害者自身の適応度を下げる犯罪であるが、乳幼児より年齢が上の子供を殺す子殺しに比べると、非適応性はあいまい
そこから予測されることと合致して、親殺しが警察から精神錯乱下の犯罪であると判定される率は、両者の中間となっている
事件がそのように判定される率は、親殺しの場合は25%、子殺しの場合は41%、そして、非血縁者の場合はわずか2%
自殺に関して言えば、親殺しのうちで自殺したものは3.1%
これは予測されるとおり、子殺し犯人のうちで自殺したものの割合が31%であるのよりもずっと低いが、非血縁者を殺して自殺したもの4.8%という数字を上回っていない
非血縁者殺害後自殺する犯人の大半は、性的な理由が原因で女性を殺した男性
他の研究に比べると、カナダで親殺しが精神異常とされる割合は、一見すると驚くほど低い
エディプスの葛藤と最初の親殺し
『トーテムとタブー』(1913)の中で、自分の父親を殺して母親と性交したいという衝動は、男性の心理的発達の、たんなる未熟な一過程以上のものであると主張 この最初の親殺しこそが、近親相姦のタブー、宗教、その他の全ての社会契約のもとだとされる フロイト自身、この最初の親殺しというものを、たった1回だけのものと考えていたのか、私たちの進化的歴史を通じて繰り返し起こってきたと考えたのかについては明確にしていない
記述の中では前者のように書いているが、脚注には後者を示唆させるものがある
最初の親殺しおいうのが、物語上のことではなく事実であると主張した点については、疑いの余地がない
社会の進化も精神分析学の発見もありえなかったと彼は信じていた フロイトの理論が説明を作り上げた「発見」
第一に、男の子の最初の性衝動は母親に向けられるというもの
第二に、男の子は同時に父親の死を願うというもの
それが正しいことを論じるフロイトの議論はy枠、あからさま自説の擁護であり、彼以後のほとんどのがkすやがそう論じてきた
患者が精神分析の結果を受け入れたときには、その解釈が正しいという証拠だとされる
その同じ患者が解釈を拒否したときには、「抑圧」の証拠だとされる 第三者の批判も同様にして回避される
最も有名な例では、フロイトは、馬が転ぶかもしれないという小さいハンスの恐怖を、父親が死んだらよいのにという、彼の抑圧された願望(したがって恐れ)の表れだと主張している(Freud, 1909) この男の子が言ったことの中には、明らかに、フロイトの象徴的解釈を支持するものもあり、その点に関しては正しかったのかもしれない
しかし、私たちの知る限り、フロイトとハンスの父親が、彼らのすでに知っている「真実」が明らかになるのを今か今かと待つ間に、ハンスが、彼の恐怖を、馬と、彼を取り巻く社会状況でのどんな人間とにもすすんで連合させたのかもしれない
どんなに種類の不安も、一つを思い浮かべれば他方が思い浮かぶような共通点を持っているはずだ。そうでなければ、それらを不安という共通の言葉で呼ぶはずがない
このような無節操な臨床的印象は、なんらかの仮説を示唆するかもしれないが、証拠としてはほとんど何の価値もない
フロイト自身が十分承知していたように、たとえ彼の発達過程の描写が正しかったとしても、彼が『トーテムとタブー』で繰り広げた進化的シナリオは間違っていた可能性が残る
彼自身の最初の親殺し理論を構築するにあたって、フロイトは、当時の様々な分野の知識と理論を広く取り入れたが、おびただしい数の事実誤認が含まれている
例えば、フロイトは、「母系社会」が「父系社会」に先立ち、個別の配偶が行われる前には集団的乱婚であったという、当時広く受け入れられていた文化「進化」の概念を受け入れていた
彼は「本能的衝動」を行動の中に放出されねばならないものと考えた
彼は、オーストラリア先住民その他の「野蛮人」の「分類的」親族構造は、単純に自己を中心とするヨーロッパの親族呼称よりも、親族の正確な分類が遅れたものであると考えた
彼は、ヒト以外の動物は、近縁者と配偶したくないという心理的傾向を欠いていると考えた
彼は、「近親相姦に対する全世界的恐れ」があるというフレイザーの主張を受け入れ、さらに、「外婚の起源は……近親相姦への恐れにあると考えるべきだ」と主張した 彼は、雄の類人猿は、性的成熟とともに自分の生まれた群れを追い出されるものと考えた
フロイトの進化的想像力は、大きな概念的誤りで身動きが取れなくなっていた
彼自身は、ダーウィンを尊敬して引用しているにもかかわらず、彼は、自然淘汰の本質をついに理解することはなかった
生存と繁殖にかかわる生物の性質は、生物の適応度に貢献するものだという点
彼の陥った誤りの一つが、進化によって作られた心理メカニズムに関する誤った概念
フロイトは、心理メカニズムは、「心の平安」を得るように進化したと考えた
至近的目的の一つかもしれないが、そのようなメカニズムは、心の平安を得ることがすなわち適応度の上昇にもつながるものでないかぎり、自然淘汰によって生じることはできない
彼はトーテム宗教について「子が持つ罪の意識」に起因すると述べているが、そのようなものは個体の繁殖に有利でない限り進化するわけがないものだとは、彼にはまったく考えつかなかったのだ
エディプスの大ぶろしき
なぜフロイトをとがめるのか?
フロイトはダーウィンの理論を理解できなかった点では咎められるかもしれないが、専門の生物学者でさえ、それから50年近くも理解できなかったのだ
他の理論は当然の運命として葬り去られたのに、この理論だけは重大な影響をいまだに及ぼし続けているから
母系社会を持つ太平洋の島であるトロブリアンド島にはエディプス・コンプレックスなどというものはないといった、ブラニスラウ・マリノフスキーの有名な主張に対する、反論 トロブリアンドの少年にとって重要な成人男性は、彼の父親ではなく、彼の母親の兄弟
「男性は、他の男性と仲のよい女性を自分のものにしたいという欲望を持っており、同時に自分と仲のよい女性に対しては、強い嫉妬の感情をもって彼女を独占しようとするだろう」というのが「エディプス理論」の一つの「予測」であるとスピロは述べている
彼の議論は「息子が母親と独占的な関係を持とうとすると、強い父親によってはばまれるので」、「抑圧されたエディプス・コンプレックスが働いて、成人におけるこの三角関係を再構築することによって、敗北を無に帰させる」というもの(Spiro, 1982) 言うまでもなく、男性間の性的競争という部分は正しいだろう
これらの動物はどれも、息子が生まれるよりずっと前に、父親と母親が分かれてしまうので、息子は母親を十分独り占めすることができる
哺乳類の雄同士が性的競争者である理由は、未熟な息子と成熟した父親との相互作用とはなんの関係もないところである
したがって、男性同士の性的競争を「エディプス的葛藤」の証拠とすることは全く馬鹿げている
家族内の葛藤を解釈するにあたって、フロイトは概念的に途方に暮れていた
この洞察を欠いていたために、精神分析家たちは、真の利益の対立を、「第一の」葛藤の非適応的で象徴的な現れと間違って解釈した
「悪魔的な母神、食人鬼母、継母、姑は、母親の娘に対する恐ろしい態度の特殊化した現れである」
しかし、継母や姑は、真の母親と娘の関係よりもずっと本当に利益の対立が大きい
父親(たち)を殺して母親(たち)を手に入れるという、すべての男の子のエディプス的夢物語が、復讐をともなって実現される話だとした
2人の兄弟のうちの弟が、遠くに住んでいる族長の妻を誘惑
夫である族長は弟を捕らえ殺そうとするが、兄が弟を助け魔法の力でその村の全ての男性たちを消す
彼らは勝利の後に、村の女性達をすべて奪う
あまりにも象徴的解釈にこだわりすぎていて、話の正確な内容を把握していない
話の骨子は、非血縁関係にある男性どうしの繁殖をめぐる競争であり、それは、父親と息子の意見の不一致などとは比べ物にならないほど深刻で危険なもの
スピロは、上記の物語における兄弟間の連帯をエディプス・コンプレックスの証拠だと解釈しているばかりでなく、山ほどある兄弟間の葛藤の物語をも、まったく同じように解釈している
精神分析家たちは、個人が他人の犠牲のもとに自分自身の利益を追求するよう、タブーや象徴を操作して使うということを全く理解しなかった
例えば、フロイトは、近親相姦の禁止が遠い親戚や姻戚関係にまでも拡張されるという事実を、「集団的乱婚」の非適応的な痕跡であると解釈し、近親相姦の回避を色々操作するのは、その規則を作った人間の利益を擁護するためであるということにまったく気づかなかった(Thornhill & Thornhill, 1987) 同様にフロイトは、いとも簡単に「王」を「父親」の隠喩として使っている
権力者は自分に対する尊敬、服従、愛情を呼び起こさせるために家族関係の隠喩を使うのだと気づかず、フロイトは家臣は自分自身の心理的必要性(罪の意識)を満たすために象徴的な父親を造り上げるのだと考えた
イギリスのジェームス一世は、1609年に自分自身を「人民の政治的父」(parens patriae)だと宣言したが(Stone, 1977)、そのタイトルは彼の「子どもたち」には受け入れられなかった もし、権力が正当化されるならば(そして、もっと簡単に行使されるものならば)、権力は、目的を隠すか否定するかしなければならないだろう
権力の影響を最もよく否定する方法は、抑圧は抑圧される者たちの利益になると思わせることだ
父権制は、遺伝的縁者びいきにもとづく利益の真の重複から生じる、親が子を真に思いやるやり方を真似ている
それゆえ、支配する者とされる者との間の圧倒的な対立の基盤を隠している
父権制は、無力な子どもが自分の生存と福祉を成人の世話に頼る、純粋に依存的で無能力な関係をモデルとし、実際はその関係が逆転している状況に拡張している
支配者は、被支配者に寄生しているのだが、寄生を利他行動と偽っているのである
私たちは、書き残された資料を正確に分析すれば、親の隠喩は一般的に上から押し付けられたもので、それを強制される側からは抵抗を受けたというのが正しいのだと考えている
エディプス理論は権威主義の武器となっている
「本質的に両親の文化的代替者に対する反抗は、境界線や標準や制限に対する反感と起源は同じで、エディプス的葛藤を解決することができないために、父親が母親に対して有している権利に対し、父親殺しをしたいという反感の現れなのだ」
「フロイトのエディプス理論が」これほど人気があるのは、それがおとなの聞きたいことだからではないのだろうか?つまり、世代間の闘争で第一に悪いのは、若者の心理的性質にそなわった邪悪さであるということなのだ
何をめぐる葛藤か?
エディプス理論はまだまだ懐疑的に見てよいだろうが、明らかに、フロイトは何かを見つけていたはずだ
そうでなければ、彼の考えが、これほど多くの人間の想像力を捕らえることはなかっただろう
科学的に正しいと認めているのではなく、宗教的な信仰システムでさえ、それを信じる者たちの真の経験と合致するところが、少なくとも部分的にはある
淘汰思考を使えば、父親と息子との間には、たしかに妻・母親をめぐる対立が存在する
それ以上に、カレラの間には、真の性的対立があり、少なくとも、息子がいつ潜在的な繁殖地位に登るかという点を巡って葛藤がある
息子の繁殖活動はしばしば、父親自身がまだまだ繁殖を続けようとする意志に対して相当な負担をかけ、父親自身からの援助によって達成される
しかし、父親の援助を受けるという点は、性的な葛藤を意味しているのではなく、父親自身の繁殖の意志に負担をかけるという点は、母親をめぐるわけではない
フロイトは異なる二つの対立を、一つのものにつないでしまった
ヒトの若者は、相当の長期間にわたって成人の純粋な世話に極度に依存しているが、その世話はほとんど母親からきていたし、今でもそう
母親の次の妊娠に対する子どもの反応は、親が一生懸命になって新しい弟妹のできることを嬉しがらせようとしても、せいぜいがアンビバレント、悪くすればあからさまな敵対
子どもの視点からすれば、父親は母親をいいように使っており、それは必ずしも、子どもの必要と合致するわけではない
親同士が性的に密接であることは、次の弟妹ができる危険を意味するので、幼い子どもが、母親の性的興味を減少させ、父親が母親に近づくのを阻止することによって、弟妹ができる時期を遅らせようとする戦略を進化させたとしても不思議はない
さらに、子どもが親の最適値よりも長い出産間隔を好むことはさておき、父親自身が、子にとって、母親の労働の果実をめぐる競争者であり、父親は、それを、自分自身や自分の利益のためや、(他の)配偶者に求愛するために使うかもしれない
父性が不確かであることや、結婚生活が不安定であることなどからくる、さらなる問題を考慮に入れなくてさえ、ヒトの赤ん坊は、母親の連れ合いを白い目で見る理由は十分にあるというものだ
ここで挙げたような潜在的な父子の対立は、どの点においても、息子と同様に娘にも当てはまる
父親と娘の葛藤
子どもが成熟に近づくにつれ、父親との新たな競争と対立の基礎が明らかになってくるが、後期に起こるこれらの葛藤において、子供の性別はおおいに関係している
婚資を払わなければならない父系社会では、娘は家族の財産
結婚にあたってうまく交渉が行われれば、父親は経済的に潤うばかりでなく、婿とその家族との連合を固めることによって、政治的にも高い地位につくことができる
娘自身が感じる自己の利益は、父親自身が娘に見出す価値とは対立するかもしれない
この手の親子間の対立は、女性の繁殖能力を男性が操作しようとする、どこにでもみられる男と女の対立の特殊例
女性の貞操をめぐって「名誉か恥辱か」の倫理がよく発達している社会では、娘はこの葛藤で押さえつけられ、監禁されたり、性的嗜好をなくすためにからだの一部を切除されたりする(Dickemann, 1981) 娘の純潔を守る試みが失敗に終わった場合には、親の目には、娘は財産から不利益へと転換し、「家族の名誉を救うために」、父親または兄弟によって殺されることすらある(たとえばKressel, 1981) この点に関しては、母親の観点が、娘のそれよりも父親のそれに近いことがあると指摘しておかねばならない
自分の娘を嫁にやることで得られる婚資は、彼女自身の息子に嫁を迎えるために使えるかもしれない
一方、もしも婚資がある社会で普通なように、嫁の父親自身が新しい妻を迎えたいと思ったり、迎えたりした場合には、娘の結婚によって父親が得る利益は、娘の母親にとってなんの利益ももたらさずに使われることになるので、母親は、このときには娘の味方になるだろう
母親の利益が、夫のそれとではなく、娘のそれと一致するような、もう一つの父/娘の対立は、父親が娘を自分自身の性的対象とするとき(irons, 1986) 娘は、外婚を好むように進化するはず
しかし、同じ議論が父親にも同等に当てはまるかどうかは大いに疑問だ
女性は歴史的に一時に一人の子どもしか育てず、次の子との間は数年があいていたので、ある一人の男性によって受精された子どもがいると、他の男性による子どもを同時に作る可能性は排除される
しかし、男性にとっては、自分の支配下にある、結婚していないもうひとりの女性に産ませた子どもは、それ以外の繁殖ルートを閉ざすものではまったくない
もちろん、子どもが奇形であれば、父親の適応度も下がるし、娘の最終的な適応度が下がるようなことに、父親は無関心でいるべきではない
それでも前述の議論を考慮すると、「普通の」父親は、少なくともときどきは娘との近親相姦を望み、とくに、娘の父性に少しでも問題があるときにはそうなるだろうと予測される
さらに、そのような場合、行動を先に起こしたのが父親であることは明らかで、娘は強制されている
おそらく、このような事件がもっと頻繁に起きない理由は、この父・娘関係においては、母親の適応度上の利益が娘のそれと一致しているので、娘が家庭内に連帯者を持っていることによるのだろう
父権の転覆
もっと劇的な対立は、父親と成熟しつつある息子との間にあり、やっとここで、フロイトのいう「第一の葛藤」に少しでもちかい何かが見つけられそうだ
しかし、息子が思春期に達する頃には、競争の対象はもはや母親ではない
ヒトの父親はしばしば、家族で所有し父系的に継承される資源(物質的資源の他に、地位、タイトルなども含む)を支配している
そのような資源は限定資源であり、それゆえ、繁殖その他の願望に制限を設ける要因となる
したがって、まだまだ元気な父親は、若い男性の野望にとっては障害になることもある
2人は実際に性的競争車になるかもしれない
呪医であり、大きな影響力のある人物である父親が2人の息子の妻を奪い、妻と息子たちを追い出し、財産を分けることも拒否した
息子の一人が財産の一部を取り戻そうとしたときに、父親の顎を骨折させた
父親は警察に向かったが、息子はこのうえ自由も奪うつもりだと考え、先回りして殺した
サハラ以南のアフリカの多くの一夫多妻社会における「世代間緊張」に関する総合討論の中で、ロバート・ルヴァイン(1965)が述べたこと ここでの緊張は、家族の長としての地位を手に入れるために、父親の死を早めようとしているのではないかという父親の恐怖に根ざしている事が多い
父親が息子に財産を与えて息子の婚資とさせるような社会では、父親が財産を与えるのをしぶったり、息子が父親の正式な許可を得ずに財産を使ったりすることから対立が生じることがままある
性的な権利をめぐっても、また対立は生じる
父親が権威的な支配を及ぼしている場合には、父親が息子の妻たちと不倫関係を持つかもしれず、その危険は多くのアフリカ社会で認識されている
一方、父親が年老いており、裕福ではあるがたくさんの妻を性的に満足させるほど元気でない場合は、息子のほうが、父親の若い妻たちと不倫関係を持つことがありうる
父親の死とともに息子が父の妻たちを相続するような社会では、父親が非常に年老いていれば見逃すこともあるが、そうでなければ、これは本当の対立の源泉となる
世代間の対立こそが実際の争点なのだと考えると、エディプスやその他の民話は、全く違った重要性を持つようになる
それらは操作の手段
神話や民話は、心理的に重要なテーマを反映したり象徴化したりするために存続しているばかりではなく、それらは使われているのだ
物語が記憶され、繰り返し語られるのであれば、それは、その社会の目的に訴えるところがあるはず
民話が操作的に使われていることは、親の利益のために仕えることを「美徳」としてすすめているようなときには、特に明らか
インドでは、父親殺しの話が驚くほど少ないことを指摘したあとで、ラマヌジャン(1983)は次のように続けている 父親の息子に対する攻撃がよく見られ、これらの話ではどれも、息子は自らの政治的性的能力を快く諦めてしまう
マハーバーラタでは、サンタヌーの一番上の息子であるビスマは、父親が漁師の娘と結婚して彼の性生活を続けられるようにするために、自分の王国も性生活も放棄する 賢者によって老醜の呪いを受けた王ヤヤーティは、自分の快楽の暮らしを長引かせようと、5人の息子に彼らの若さを譲ってくれるようにと頼む
上の息子たちはそれらを拒否し、父の呪いをうける
一番下の息子は、彼の若さとヤヤーティの年齢とを1000年間交換する
この犠牲によって彼は大いなる栄光を得、のちの王国の全てを相続する
既婚、3人の子を持つ24歳の長男(2人の未成年の弟がいる)と46歳になる父親
先祖代々の土地の彼の分を分けてくれるように父親に要求したところ、あとの二人の息子が成人して結婚するまでは土地の分配はないと断った
彼は父親を殺してしまった
同性間競争か、親子の葛藤か?
フロイトのシナリオによれば、親と子の対立は、幼児期からの異性の親をめぐる同性の親との競争に帰着する
本書で展開している理論によれば、親と子の間の対立の骨子は、親の投資の配分にあって、親が分け与えようとするよりも多くを要求するのは、娘も息子も同様
性的成熟の時期になって初めて、親子の対立には、繁殖の地位や、娘と息子にとって使い方の異なる資源をめぐっての、同性間の対立が現れてくる
もしもフロイトの味方が正しいならば、どの年齢をとっても、親子間の暴力は同性間で起こる頻度が高くなるはず
ここまでの分析は、そうではなく、子どもが小さいうちは性との関連はなく、子どもが成人したあとでは、主に男性間の殺人の方が女性間の殺人よりも多いという理由によって、そのような性との関連が現れてくることを示している
カナダのデータでは、乳幼児や思春期前の子どもが関係する殺人に、同性間のバイアスがかかっている証拠はない
同性間の暴力傾向が明らかになってくるのは、思春期以後